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父の危機-1 [父の肺炎]

長らく放置のここでしたが。

去年の11月から、3月末期限のプロジェクトにとりかかり、毎日残業の日々に。
その昔、月に130時間ぐらいの残業を何か月も続けたこともあるので、
残業自体はそんなに苦でもなかったけど、
プロジェクトの一人のメンバーが、色々と事柄を引っ掻き回すので手戻りが多く、
日ごとに帰宅時間が遅くなり、2月には毎日22時までが定時な状態に。
なんだかんだで家に帰ると23時過ぎ、家事もほぼ停止。
正直、3月末までにプロジェクトが終わるかどうか、かなりギリギリ。

そういう仕事な状態で迎えた3月11日。
地元・陸前高田の追悼式典に参加するかどうか迷ったけど、
帰っても、それは私の自己満足にしかすぎないなと思い、
東京の家で、長崎にいる同級生と思いを共有しながら、その時間を過ごしました。
そして、追悼式典の終了を見計らって、両親に電話。
そのとき、父が昨日発熱したこと、今日は熱が下がったので式典に出たことを聞く。

父の発熱は珍しいので、気になり、翌12日夜に再び電話。
よく聞くと、10日の発熱以降、食欲が無く、
12日も朝から何も食べず、一日寝ていたとのこと。
おかしい。
父が3日も食欲が無いなんて、今までの人生の中で絶対ない、ありえない話。
左側の腰が痛むという話もあったので、私は内臓の病気を疑い、
翌13日に県立病院の内科へ行くことを、母に約束させました。
午前の病院は混むので、午後にするわという母に、
本当は朝イチで行かせたい気持ちだったけど、
実際に病院で待つのは母になるので、私はぐっとこらえ、とにかく病院へと強く言うだけに。
念のため、13日朝、姉(高田にいる)に、父を病院に行かせることをメール。

そして夕方、母に電話すると、第一声は「入院になったの」。
泣きそうな声でした。
すぐ姉に代わり、肺炎だったこと、病院で熱が39度以上あったこと、
受診した県立高田病院から大船渡病院に救急搬送されたことを聞きました。
まさかの結果。
姉は、私のメールを見て病院に行き、ちょうどその一連に立ち会うことになったそう。
私は16日に高田に帰ることにし、母に気を確かにするようにと言うしかありませんでした。

15日の午前9時過ぎ、仕事中の私の携帯に姉から電話。
大船渡病院から、父が非常に危ない状態になったことの連絡があったそう。
偶然にもそのとき、姉は仕事で大船渡病院にいたので、すぐ駆けつけると、
父は呼吸困難状態に陥り、大変な状態だったそう。
呼吸器の専門医が大船渡病院にはおらず、このままでは時間の問題になってしまうということで、
姉は、親しくしている県立高田病院の院長先生に相談し、
大船渡病院から搬送できる範囲で、最も呼吸器の件で信頼がおける病院へ
転院することに。
その先は、奥州市水沢にある胆沢病院。
私には、胆沢病院が受け入れ可かどうかはまだ不明な段階での連絡でした。

父が危ない。
実感がわかない話でした。
病気らしい病気一つせず、類まれなる強い心臓を持つ父が、
こんな、いきなりそんなことになるなんて。

職場に事の次第を話し、仕事のあれこれを指示し、9時半過ぎに早退。
帰宅し、岩手行きの準備をしている11時半頃、
姉から胆沢病院受け入れ可となったことと、これから救急搬送されるという連絡が。

ただ、非常に危ない状態なので、人工呼吸器を装着することになりそうで、
そうすると、意識を薬で失わせることになるので、
最悪の場合を考えると、意識があるうちに私が到着できるといいのだけどという話が。

とにかく早く岩手へ。

一番早い経路をたどり、もどかしい思いを抱えつつ病院に着いたのは15時過ぎ。
やはり、岩手は遠い。。。


タグ:間質性肺炎
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