SSブログ
父の肺炎 ブログトップ

退院決定 [父の肺炎]

父の退院が決まりました。

正確には、退院じゃなく転院ですが、
退院しても良いところいきなり在宅は不安だねということで、
以前から受け入れを言ってくださってた県立高田病院への療養入院になります。

いつどうなってもおかしくないと言われた3月15日から1か月、
今では酸素のチューブもとれ、
体内酸素濃度も95以上を保っていられるほどになりました。
そして、転院するならGW前にはした方が良いという話になり、
今週19日に今の胆沢病院を退院します。

胆沢病院には、本当にお世話になりました。
一度だけ、ちょっとトラブルがありましたが、
それについてしっかり私たち家族と向き合って対処してくださり、
また、日々の看護の姿勢・体制も素晴らしいものでした。
安心して任せられる良い病院にお世話になることができました。

今回、転院になるため、主治医は高田病院におくことになるけど、
状態が変わったときは胆沢病院にお世話になることも約束されています。
(残念ながら間質性肺炎は持ち続けるため、この担保は必要。)

あと、高田病院側も、父の受け入れにあたり、設備を整えてくださいました。
酸素吸入関係の機械、最新式のものが入る(入った?)そうです。
ただ、今の父の状態だと使わなくてすみそうな気配もありますが。
ともあれ、父の件がきっかけとなり、
高田病院の機能が向上するのは、地域にとっても良かったな。

なお、高田病院は被災前から「病院から家へ帰る」に力を入れているところ。
家で自力で過ごせるためのリハビリに重点が置かれるため、
70代半ばでほぼ1か月近く寝たきりを余儀なくされた父のような人には、
とても良い環境になります。

今日の今頃は、
仙台に住む、伯母(父の姉)二人が父を訪ねているでしょう。
3月16日、会わせる人がいるなら会わせておけの医師の言葉に、
回復を信じつつも連絡をしないわけにはいかず、
でも、夜に駆けつけた伯母の姿を見ると父本人がショックを受けるため、
結局、眠っている父を病室の入口から見てもらうことしかできず、
本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
今日やっと、回復した姿で気兼ねなく会ってもらえるのは嬉しいかぎり。


タグ:間質性肺炎
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

特発性間質性肺炎について [父の肺炎]

間質性肺炎のことを少し。
色々な方がブログとかに書いているけど、それぞれの断片的だったりするので、
父の例と、調べた内容などをまとめて書いておきます。

父は、随分前からよくカラ咳をしていました。
父の母が呼吸器系の弱い方だったそうで、遺伝だろうと思っていました。
あと、歩くとすぐ息切れがあり、それは太っているせいだろうと思っていました。
今になってみると、どちらも間質性肺炎の症状に思います。
ただ、去年の冬に胸部X線検査でひっかかり、
その後の再検査では何もないと言われたので、違うのかもしれません。
しかし、間質性肺炎はその気になって診ないと見つからない場合もあるそうなので、なんとも言い難いかな。

仮に長年の間質性肺炎だったとすると、今回は急性増悪(きゅうせいぞうあく)になります。
この時期に新しく服用した薬等は特に無く、発症の1,2日前に寒い中で1時間以上雪かきをしたそうで、
その後に珍しく寒い寒いと言い出したとのことで、風邪がひきがねかなという感じです。

父は特発性間質性肺炎と診断されていますが、線維化は起きていません。
また、指もいわゆるバチ指ではありません。
特発性間質性肺炎の最も危険因子である喫煙も、父は無縁です。

間質性肺炎は、トリ類のアレルギーで起きる例があるそうで、
家も、長年羽毛布団を使っているので気になりましたが、
担当医の診るところ、それらアレルギー反応による肺の様子ではないそうです。
特に、それらのタイプであるときはステロイドがおそろしくよく効くそうです。
膠原病でもないそうです。

また、特発性間質性肺炎ではあるものの、父は難病認定されるタイプではないだろうと。
他の方のブログにもありますが、診断名だけで認定されるものではないそうです。

治療は、現在のところ、ステロイドを短期間に大量投与するステロイドパルス療法のみが急性期の手段。
新薬の研究なども、ちょっと難しいみたいです。
なお、3月15日に慶応義塾大などが特発性肺線維症の肺の線維化をくいとめる新薬を発表し、
その臨床実験が5月から始まるそうです。
うちの父のような線維化していないタイプの場合、こういう薬で次の悪化を止められるのかな?

血液のエンドトキシン吸着療法は、急性期で危険な状態にあるときに有効な例があるようですが、
根本治療ではなく対症療法みたいなもので、落ち着いた後には、意味がないらしい。
また、総じて危険な状態のときに行うため、血圧管理など細心の注意が必要なそうです。
なお、間質性肺炎の治療法として認定はされていないため、保険外です。
はっきりした金額は聞けませんでしたが、100万円くらいはするのではと。
ちなみに、父がいる胆沢病院は、別の症例に対してこのエンドトキシン吸着療法の実績があり、
万が一の場合に、やりたいと言えばできる環境ではあるようです。

前の記事にも書きましたが、人工呼吸器は、ならば使わない方が良いそうです。
呼吸器専門医の判断が欲しいところ。
あと、BiPAPとCPAPの違いは、前者は本人の呼吸に合わせた酸素供給、
後者は機械リズムで強制的に酸素供給と言えばよいでしょうか。
父の場合、肺の機能低下時にはBiPAP、回復後には睡眠時無呼吸症候群にCPAPでした。
(CPAPは、BiPAPの機械のSTモードがそれにあたるらしい)

あと、間質性肺炎の診断材料の一つに、血液中のkl-6の値がよく言われますが、
保険の関係で、公立病院だと頻繁には計測しないみたいです。
代わりに、LDHの値を目安にするそうで、うちの父は、入院時300台ありました。

最後に。
やはり、「特発性」をなんとかクリアしたいのが正直なところ。
胆沢病院も確かな腕を持っていると思うけど、やはり公立病院という限界がある印象。
慶応大病院などであれば、もしかして原因をつきとめたりできるのかなと思ったり。
まだまだ探し出せていない情報があるでしょうし、これからも情報収集していきます。


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

父の危機-4 [父の肺炎]

水沢は、吹雪でした。
陸前高田に生まれ育つと、吹雪なんてそうそう見るものじゃありません。
ずっとベッドに寝、窓すら見れない父のためにカメラでムービー映像を撮り、
パソコンに落として、見せました。
吹雪のほか、病院内を歩いた映像なども。
でも、それを見る父の様子は何か悲しそうで、私は自分で見れないからだなぁと思っていました。

25日の午前、松島の叔母(父の姉)がお見舞いにきました。
叔母は、東日本大震災の後の4月7日の余震で娘(私の従姉)を亡くし、
その一周忌の話があったので、
父の入院の話を伝えたというシナリオを描いてのお見舞いです。
やっと、叔母にも父に会ってもらうことができました。
まぁ、この時点では「会わせる人がいるなら」じゃなくなっていますが。

その日の午後、父が「知ちゃんや八っちゃん(どちらも父の姉)も来たんだって?」と。
え、なんで?それは知らないはずなのに?
母にそれを聞いたというんです。
とりあえず私は知らないことにして、その場は終わり。
夜、母に電話でそのことを聞くと、
「誰も見舞いに来ないのかって思うだろうから、仙台や松島(共に父の姉)が来たことと、
 その時は危険な状態だったから会わせなかったことを話したの。」と。

父の様子がおかしい原因がわかりました。
自分の命は、今あって当たり前のものでなかったことを知ったからなのでした。
そりゃぁ、目の焦点も合わなくなるでしょう。

お母さん、それは告知が早すぎだろーーー!
せっかくここまできたのに、父の心のモチベーションが下がるのは困るので、
姉にも連絡し、父の心のケアの対策をとることに。
まぁ、心理に詳しいワケでもない素人な二人の考えでしたが、
とにかく、父をチアアップさせることを心がけました。

26日、父は血液検査。
結果は16時頃になるそうで、新幹線の時間の関係で、私はそれを聞かずに帰京。
母は諸事情で27日の午前に病院へ来ることになっており、
この夜、父は入院して初めて一人の夜を過ごすはず。。。が、
夜、驚きの連絡が姉からありました。
「お父さん、今日、4人部屋に移されたんだって!」
今日って、私は午後3時までいて、その話はみじんもなかったのに、です。
たぶん、血液検査の数値の結果なのでしょう。
病院って、時に驚くべき素早さでコトをなすものなのですね~。
でも、4人部屋に移ったということは、病状の話からすると、良い話です。

その後も、付き添っている母からは容体の前進の報告が日々。
その歩みは遅めではありましたが、
BiPAPの使用が終わったり、酸素濃度がさらに下がったりなど。

4月1日、母はまた陸前高田に戻り、1日と2日は父独りに。
4月3日、私はGLAYの盛岡公演を見る予定があったので、
2日の夜行バスに乗り、3日早朝、再び父の病院へ。
水沢から盛岡は普通電車で1時間なので、行き来が楽なのです。

前日2日には、入院後初めて歩いたそう。
3日のその日も、一緒に歩いたら普通に歩けました。
寝たきりになるのが怖かったので、これは本当に嬉しかったです。
そして、この日は普通風呂での入浴も。
一応、介助は必要だったので、ン十年ぶりにお父さんのハダカを見ましたよ~w

翌4日も、お風呂に入ったり病棟内を歩いたり。
ベッドに寝る時間より、起きて座っている方が多くなっていました。
お風呂のあと、体重を量ってみることに。
入院前は94kg(!)あったそうです。
お腹とかアゴ周りが減っている感はありましたが、5キロ減ぐらいじゃないの~と話しながら、いざ計測。
80.4kg!
筋力ダウンもあるでしょうが、まさかの14kg減です。
父と二人、驚きで口をパクパクさせちゃいました(笑)

実は、肥満は肺炎にとって良くないそうです。
胸に脂肪がつくことで開きづらくなり、結果、息が浅くなるそうなので。
間質性肺炎という治癒が無い病気であるので、肥満でなくなることは、体にとっては良いこと。

4日夕方、私は東京へ。
6日から、再び母が付き添っています。
話だと、睡眠時無呼吸症候群のために使っていたCPapも終わったそう。
散歩with酸素ボンベも、病棟だけじゃなく1階の売店まで行くようになったそう。
あと、退院もしくは高田病院への転院の話や、在宅酸素の紹介がされたそう。

3月15日、実は、胆沢病院から浴衣の用意を言われていました。
パジャマとしてじゃないです。最悪の場合に着せるため用の方です。
絶対、そんなもの用意しない。
あの日、姉と固く決めました。
気持ちだけでどうにかなるものじゃないかもしれないけど、
そういう気持ちも大切じゃないかなぁと思います。

まだこれからです。
父の入院以降、母も実は体調を崩しています。
落ちつく日は、まだ少し先でしょう。


タグ:間質性肺炎
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

父の危機-3 [父の肺炎]

胆沢病院は完全看護で、付き添いは不要なのだけど、
もしかして限られた時間かもしれないことと、陸前高田の家と往復できる距離にないので、
母と私はずっと、病院に泊まり込みでした。
父の病状の関係で個室だったので、簡易ベッドを借りて病室内に置き、そこに母が、
別にある家族控室に私がそれぞれ寝る恰好に。
父の酸素濃度のアラームは、睡眠時無呼吸症候群も持っているせいで夜中に頻繁に鳴り、
その上、床ずれ防止でしょっちゅう看護師さんが体位を変えにくるので、
同じ病室に寝た母は、あまり寝られなかったようです。
家族控室の私にもアラームは聞こえ、夜中に見に行ったこともあるので、
病室内の母は、相当辛かったでしょう。

19日朝、担当医がふっと病室に来て、BiPAPの酸素濃度を少し下げました。
おっ、下げた!
そして16時ぐらいに説明がありました。
X線写真では、影がだいぶ薄くなったと。
また、血液検査で、炎症を表すある物質の数値が、劇的に下がったそうとも。
もしかして、期待の方向に?
でも、相変わらず、それについての明言は得られませんでした。

ここで一つ、考えないといけないことが。
私がいつまで付き添うかです。
父の容体が悪化する前は、16日~20日の岩手滞在の予定でした。
しかし、こういう状態になり、安定してきたとはいえ、医師の脅かしのような「今が一番良い」の言葉に、
可能な限り一緒にいたい気持ちが募ります。
でも、逆に、私がいること=父に自分の状態を心配させることになるので、
父はもっと良くなる、そう信じ、21日に東京に戻ることにしました。
もちろん、その週末には再び岩手入りすることにはしましたが。

20日も、父の様子は安定しています。
BiPAPの濃度はもう少し下がりました。体内酸素濃度も安定しています。
そして私はいったん東京へ。

24日、再び岩手へ。
病室に着いたのは昼頃でした。
入ると、ベッドを起こし、エンシュアを飲もうとしているところでした。
25日に経口の食事になるそうで、その橋渡しのエンシュア摂取です。
前進です。
BiPAPの酸素濃度も、また少し下がっていました。
この日、ずっと付き添っていた母はいったん陸前高田へ。
私が代わりに、26日まで泊まり込みです。

ただ、父の様子が少しおかしいことに気づきました。
先日より口数少なく、何か、目の焦点が合わない様子でいることが多いんです。
この数日で、認知症が発症しているのでは!?
すぐ、担当医にそのことを相談しました。
すると、ステロイドは精神高揚作用があるので、数日前はそれだったのではと。
また、胆沢病院には精神科が無いので、認知症の治療もカウンセリングもできず、
今はとにかく救命の方が大切だから、手立ては無いと。
ショックでした。
とにかく食い止めなくては。
積極的な会話やTVなどの外的刺激を増やさないと。
けど、実は認知症でなかったことが、後で判ります。


タグ:間質性肺炎
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

父の危機-2 [父の肺炎]

病室に入ると、人工呼吸器を喉に差し込まれた父の姿が、、、ではなく、
BiPAPという酸素マスクを着けた父がいました。
人工呼吸器はこれから!?
聞くと、胆沢病院の呼吸器の医師が、逆につけるなと指示をしたのだそう。
後からわかったのだけど、人工呼吸器をつけると、回復するものもしない場合があり、
かえって予後が悪くなる場合があるのだそう。
なので、父の意識も普通にあり、「来たのか」というちょっと泣きそうな顔に迎えられました。

父の担当医である先生から病状と治療のの説明が。
母は救急車に乗れず、義兄の車で水沢に向かっていたので、私と姉だけで聞きました。
父の病気は、間質性肺炎というのだそう。
まず、ステロイドを大量投与し、3日間様子を見ると。
このステロイドが効けば、その後の見込みは明るいそう。
しかし、効かない場合は、非常にその後の方向性は良くないと。

姉と、ただ涙しか出ませんでした。
とにかくステロイドが効くことを祈るのみ。
その日は、母と私が病院に泊まり込み、姉夫婦は市内のホテルに宿泊。

翌日の父は、だいぶ呼吸も落ちつき、熱も37度台に。
ステロイド、効いている?
酸素マスクでしゃべりづらいのに、病室内の私たちの会話に盛んに割り込もうとし、
私たちに「今は酸素を体に取り込まないといけないんだから、話しちゃダメ!」と怒られる始末。
これは、危機を脱しているよね!?

この日の午後遅く、再び担当医から説明。
それは、私たちの感触と望みとは、全くかけ離れた内容でした。

ステロイドの効きがあまり良くなく、見込みは厳しいです、と。
だってまだ1日しか投与してないのに、そんなのわかるの?
ステロイドは、効く人にはたった1日でも劇的な効果が出るもので、
その兆候が見られない父の場合、効かないという分類になるのだそう。
ただ、たまに遅れて効きはじめる人がいるので、その可能性もあるかもしれないので、
予定どおり、3日間の投与は行うそう。
ただ、覚悟をするように言われました。
父は、間質性肺炎の中でも特に治療の手段が無い、特発性間質性肺炎であろうので、
今が一番良い状態なので、会わせたい人がいるなら、今のうちに会わせるようにとも。

母と姉と義兄と4人で話し合いました。
父は、治る気でいっぱいです。
日に日に状態がラクになり、ここ(胆沢病院)に来て良かったと言っているのです。
そんな父に、みんなが悲痛な顔で会いにきたらどうなるでしょう。
自分の状態を悟ることになり、それはきっと、病状に悪影響を出すでしょう。
だから、父の気持ちを一番大切にしたい。
けれど、父を思うのは私たち家族だけではありません。
葛藤でした。
結論は、父の実家の姉一人と、母の義姉一人にだけ連絡することに。

その夜、父の姉3人を始め、皆、駆けつけてくださりました。
仙台や松島、陸前高田から、皆、遠いなか来てくれたんです。
でも、私たちの考えを話し、その夜は、寝ている父の姿を見るだけにとどめてもらいました。
本当にこのときは、皆さんに申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

あとこのとき、父の姉が最初に到着したとき、
それまで毅然としていた母が、「申し訳ありません」と泣き崩れた瞬間が、忘れられません。
父は、戸籍上はうちの姓に婿で入ったので、その言葉につながったのでしょう。

17日、父の熱が平熱になりました。
本当に、今が一番良い状態なの?段々、快方に向かっているんじゃないの?
そうとしか思えまず。

週刊誌を読みたいというので、
完全オヤジ雑誌な週刊実話と、一本松が表紙だったので週刊文春を。
本当は、週刊現代も望まれたのだけど、肺炎で亡くなる話の記事があり、
そんなものを父の目に触れさせるわけにいかず、売り切れという小さなウソを。

この頃、BiPAPの酸素濃度はまだ100%。
体内酸素濃度は、90%台の後半。夜は99~100%もしばしば。
大船渡病院にいたときは、体内酸素濃度は80%台だったそうで、
父の体(特に心臓)の負担は、だいぶラクになったでしょう。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

父の危機-1 [父の肺炎]

長らく放置のここでしたが。

去年の11月から、3月末期限のプロジェクトにとりかかり、毎日残業の日々に。
その昔、月に130時間ぐらいの残業を何か月も続けたこともあるので、
残業自体はそんなに苦でもなかったけど、
プロジェクトの一人のメンバーが、色々と事柄を引っ掻き回すので手戻りが多く、
日ごとに帰宅時間が遅くなり、2月には毎日22時までが定時な状態に。
なんだかんだで家に帰ると23時過ぎ、家事もほぼ停止。
正直、3月末までにプロジェクトが終わるかどうか、かなりギリギリ。

そういう仕事な状態で迎えた3月11日。
地元・陸前高田の追悼式典に参加するかどうか迷ったけど、
帰っても、それは私の自己満足にしかすぎないなと思い、
東京の家で、長崎にいる同級生と思いを共有しながら、その時間を過ごしました。
そして、追悼式典の終了を見計らって、両親に電話。
そのとき、父が昨日発熱したこと、今日は熱が下がったので式典に出たことを聞く。

父の発熱は珍しいので、気になり、翌12日夜に再び電話。
よく聞くと、10日の発熱以降、食欲が無く、
12日も朝から何も食べず、一日寝ていたとのこと。
おかしい。
父が3日も食欲が無いなんて、今までの人生の中で絶対ない、ありえない話。
左側の腰が痛むという話もあったので、私は内臓の病気を疑い、
翌13日に県立病院の内科へ行くことを、母に約束させました。
午前の病院は混むので、午後にするわという母に、
本当は朝イチで行かせたい気持ちだったけど、
実際に病院で待つのは母になるので、私はぐっとこらえ、とにかく病院へと強く言うだけに。
念のため、13日朝、姉(高田にいる)に、父を病院に行かせることをメール。

そして夕方、母に電話すると、第一声は「入院になったの」。
泣きそうな声でした。
すぐ姉に代わり、肺炎だったこと、病院で熱が39度以上あったこと、
受診した県立高田病院から大船渡病院に救急搬送されたことを聞きました。
まさかの結果。
姉は、私のメールを見て病院に行き、ちょうどその一連に立ち会うことになったそう。
私は16日に高田に帰ることにし、母に気を確かにするようにと言うしかありませんでした。

15日の午前9時過ぎ、仕事中の私の携帯に姉から電話。
大船渡病院から、父が非常に危ない状態になったことの連絡があったそう。
偶然にもそのとき、姉は仕事で大船渡病院にいたので、すぐ駆けつけると、
父は呼吸困難状態に陥り、大変な状態だったそう。
呼吸器の専門医が大船渡病院にはおらず、このままでは時間の問題になってしまうということで、
姉は、親しくしている県立高田病院の院長先生に相談し、
大船渡病院から搬送できる範囲で、最も呼吸器の件で信頼がおける病院へ
転院することに。
その先は、奥州市水沢にある胆沢病院。
私には、胆沢病院が受け入れ可かどうかはまだ不明な段階での連絡でした。

父が危ない。
実感がわかない話でした。
病気らしい病気一つせず、類まれなる強い心臓を持つ父が、
こんな、いきなりそんなことになるなんて。

職場に事の次第を話し、仕事のあれこれを指示し、9時半過ぎに早退。
帰宅し、岩手行きの準備をしている11時半頃、
姉から胆沢病院受け入れ可となったことと、これから救急搬送されるという連絡が。

ただ、非常に危ない状態なので、人工呼吸器を装着することになりそうで、
そうすると、意識を薬で失わせることになるので、
最悪の場合を考えると、意識があるうちに私が到着できるといいのだけどという話が。

とにかく早く岩手へ。

一番早い経路をたどり、もどかしい思いを抱えつつ病院に着いたのは15時過ぎ。
やはり、岩手は遠い。。。


タグ:間質性肺炎
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感
父の肺炎 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。