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3月11日から今日まで [雑感]

3月11日金曜午後、私は新宿の職場でいつもどおり仕事をしていました。
部であるプロジェクトを開始することになり、夕刻からの打ち合わせに向け、わらわらとドキュメントを作っているところでした。

揺れてる?
皆が顔を上げ、顔を見合わせるうちに、揺れは大きく。
激しくガタガタという揺れではなく、大きく円を描くような揺れ。しかも、長い。長く、揺れも時間を追うごとに強まっていく。
隣で係長は机に隠れようとし、別な人は壁につかまっていました。
私は、地震には慣れて育っていて比較的冷静だったので、来客の安全が確保できるか確かめにロビーへ。
建物内で瞬電が起き、若干、騒がしくなったものの、そうこうするうち揺れも収まり、大事に至らなかったことに安堵。

が、気になる。
緊急地震速報が来ずこの揺れは。。。イヤな予感がし、ネットを急いで見ると、宮城で震度7、岩手の故郷は震度6と出ている。
即行、携帯で実家に電話するも、そもそも関東が携帯規制でつながらず。何度かトライし、あきらめ、公衆電話へ。
行く途中、危機管理部門の友人が「実家、震度6だって?大丈夫か!」と声をかけてくれました。
そして公衆電話から家、姉の携帯にかけるもつながらず。
実は後で、この時点で実家にはつながらなくて良かったと思うことが。

職場でTVを食い入るように見る。そこには、仙台の街が津波に押し流されていく映像が生で流れていました。
他の土地からも、どんどん津波の知らせが入っています。
「実家は大丈夫なの?」と聞かれ、「うちは高台なので、津波は大丈夫です。うちに来たら街全体が壊滅ですよー。ただ、古い家なので、震度6は初めてでそちらが怖くて。」と答えました。

その後も、幾度も電話するけど全くつながらず。
いてもたってもいられず、家の隣にある小学校に電話するもダメ。姉の勤める特養ホーム(うちよりさらに高台)に電話するもダメ。山の麓の神社に電話してみるもダメ。
そのつながらない状況がNTTの輻輳規制ではなく、全部話し中なところから、これは電話設備自体がダメになっているのかもと思い至る。

会社から全員に待機命令が出され帰ることができなかったので、ひたすらネットとTVで実家方面の情報を得ようとしました。
ここでも何度か書きましたが、私の実家は岩手県陸前高田市高田町。
今、この地名を聞くとみな「あの。。」と聞き覚えがあるでしょうが、あの日の時点では、小さい市なためニュースなどでは何も情報が出てきませんでした。だけど、少ない情報ながらも非常に大きな津波に襲われたこと、そして、不確かな情報だったけど、津波は家の隣の小学校に達したことまでわかりました。
小学校に達した=家にも達した可能性ありで、とても気が気じゃなく、そんな私を見かねた上司が、夜23時、こっそり私だけ帰らせてくれました。

帰宅後もTVを流しつつネットで情報を探し続けました。
深夜、気仙地方各地で状況を知らせる声がわずかながらネットに上がり始めたのに、陸前高田からはゼロ。「おーい、陸前高田!誰か返事しろー!」と呼びかける声もでたけど、それに呼応する書き込みは無く、本当に陸前高田はどうなってしまったのだろうと不安は高まるばかり。

そして、夜明け。朝、テレビ朝日だったかな、初めて現地からの中継をしたのは。
そこには、信じられない光景が映し出されていました。
米崎という、隣の町にあたるところにカメラは立っているのに、その向こうの高田町からその先の気仙町まで何も無いんです。
ところどころに、鉄筋コンクリートの建物の残骸のようなものと、マイヤという大きなスーパーの建物と、県立病院があるのみ。
あまりの光景に、何も考えられませんでした。
そして、一番気になる実家の方の画像・映像は全くなく。両親ほか親戚・知人の安否は一切不明。
奈良にいる姪や、長崎や静岡にいる高校時代の友人と連絡を取り合うものの、その後も詳しい情報はさっぱり入らず。
ただマスコミには、「陸前高田壊滅」がどんどん大きく広がっていきました。

12日土曜と、翌13日、ひたすらネットとTVで情報を探した結果わかったのは、姉の家は津波で流されたこと、実家の隣の小学校3Fまで水が来たこと、隣にある小川が溢れたらしいこと、小学校の裏の家はまったく無傷なこと、小学校の児童は高台に避難し無事なこと、被災後の航空写真では家があること。
情報を総合すると、白が多いけど黒が無いわけではなかった。
13日夜、姪から姉と義兄の無事が知らされました。両親の安否はまだわからず、姉が無事なら両親と一緒にいる可能性が高いので、通じてくれるのを祈りつつ、両親の安否を問うメールを送りました。

14日月曜。とりあえず仕事へ。実家を案ずる声を沢山いただくも、まだ不明の返事しかできなく、皆さんに申し訳なく。
そして昼少し前、携帯に姉からメール「両親は無事。一緒にいるから安心を。」。職場の机でしたが、大泣きに泣いてしまいました。
なお、泣いたことで逆に、「おー、無事だったのね」がみんなに早く伝わる結果に(苦笑)
そして昼、船橋の母方の従姉が、家の安否を気遣い職場を訪ねてきてくれました。従姉は十数年前に伯父が亡くなったときに会って以来で、まさかの出来事でした。無事を母方の親類に知らせたくとも、誰の連絡先も知らないことに困っていたので、とてもありがたかったです。

16日、見知らぬ番号から携帯に着信と留守電。聞くと、NTT盛岡が父からの「無事です」を伝えてくれたものでした。
なお、残念ながら姉の家のお義母さまは津波で亡くなったとのこと。

17日、避難先である姉・父の勤め先の特養ホームへ荷物を送りました。宅急便もゆうパックも受付不可だったので、定形外郵便にて。
宛先を見た瞬間「届けられないかもしれないです」と言われましたが、それでもいいです、とお願いしてきました。

母の声が聞けたのは18日、震災から7日目でした。
姉の携帯が一瞬、電波がつながったそうで、その機に義兄が気を利かしてくれたもの。
途切れ途切れ、何度もかけ直しながらでしたが、そのときも嬉し涙でした。

19日過ぎ、やっと陸前高田の避難者名簿のほぼ全部が出回るようになってきました。
TVも、悲惨な映像より、避難者の顔を映すようになってきました。

20日、送った定形外郵便到着との知らせ。さすがです郵便局。あんな状況でもすぐ届けてくれました。本当にありがたかったです。

23日、4月から千葉の刑務官となる甥が岩手から上京。
彼は震災当日、高田町大石の家にいて、地震が強かったので父(義兄)の指示で、祖父母らと庭に出ていたそう。その際、駅(海)方面から沢山の鳥が一斉に山に飛ぶのを見たとのこと(あのとき気づけば・・と悔やんでいました)。
津波が堤防を超えたことを伝えたとされる市の防災無線は、何か大声でわめいているようにしか聞こえず、その後、音声は波が流れ込む音になり、途絶えたそう。
間もなく、津波が押し寄せる音が聞こえ、まずい、山へ逃げろ!と皆で走り出したそう。藪をかきわけ斜面を登るさなか、後ろを振り向くと足の寸前まで波は押し寄せ、後に続いていた父や祖父母の姿はなかったとのこと。自分一人が残ったと観念し、一緒に登る近隣の人と助け合い、どうにか斜面を登り、高台の高田一中にたどりついたそう。
少し後、一瞬は生存をあきらめた父と祖父が来て、父は胸まで波に浸かり、祖父は一時は波に飲まれたもののそれぞれどうにか来れたこと、祖母は波に飲まれたと告げられたそう。
その後、彼は若干21歳ながら地区代表として一中の避難所本部立ち上げに関わり、避難所を離れる日まで奔走したとのこと。

26日、母から実家の家電話、ネット等の解約と、携帯を買って送ってほしいと頼まれました。実家の電話番号は、生まれ育った家の思い出が沢山詰まったものなので、私が解約手続きをするのは本当にさびしかったけど、今後の生活に向かうステップと自分に言い聞かせました。
新しく買った携帯は、もちろんらくらくフォン。陸前高田市に就職するため30日に高田入りする姪に、渡してもらうよう託しました。
もう一つ、26日夜。TBSを見ていたら「陸前高田で仮設住宅申し込み開始」というニュースが。
そっかぁと見ていたら、レポーターの後ろを父が横切るのが見えました。「あぁっ!」私、姪、彼で画面を指さしました。次の瞬間、インタビューに答える父!!
もう家中大騒ぎ。その後私は、震災後初めて見れた父の元気な変わらぬ姿に大号泣。
TVで姿を映してもらい、元気な様子を見られたのは、遠く離れた地で心配するしかない身には本当に嬉しかったです。

30日、渡したらくらくフォンで初通話。ドコモが基地車を避難所に置いているので電波状況は良好、ファミ割なので通話もメールも気兼ねなく使えます。
しかし、最初に話した内容は辛いものでした。
家の隣で、すごくお世話になった方の奥様が行方不明だったのが遺体で見つかったというもの。家族同様のつきあいで、私が小学校のときからずっと慕っていた方なので、30日の夜は泣きはらしました。
津波が来たときの実家の様子も。
実家は高台なので津波警報も気にせず、両親とも家にいたそう。1階にいた母は、隣の小学校から児童の声・足音がして騒がしいなと思いつつ、ふと、玄関はちゃんと閉まっているかなと立ち上がり、窓の外を見たそう。すると家のすぐ15m位先にある小川の橋の欄干に1m以上の高さでがれきが押し寄せているのが見え、瞬時に津波だ!と判断し2階へ駆け上がり、2階にいた父と、窓から家の後ろの様子を見たそう。
水はみるみるうちに川から溢れ、道路と駐車場に渦を巻き、うちの車、ほかの車が浮いて木の葉のようにぐるぐる回っていたそう。家の1階も、母が2階に上がった直後に南と西のガラスを破って一気に浸水してきたとのこと。なす術もないまま水が引くのを待ち、とるもとりあえず高台の公民館に避難し、その後、父と姉が勤めていた関係で、今の特養ホームの避難所へ移動したそう。
もし、あの地震の後にしていた私の電話がつながっていたら、母は玄関を見に行こうと窓を見ることは無かったろうし、そうであったら、母は水に飲みこまれていました。あのとき、電話がつながらなくて本当に良かったです。
そして、何の脈絡もなく「玄関は。。」と母に思わせたのは、亡くなった兄が護ってくれたのだとも思っています。

避難所は、1日2食で、朝がおかゆ、夜がごはんと味噌汁だそうで、炊き出しがあるときのみ、昼食があるそう。
炊き出しでは豚汁やシチューなどそこそこなメニューがあるもののその回数は少なく、どうしても栄養に偏りが出るし、ご飯もおかずが乏しいので、やはり辛いそう。
特に胃を摘出している母は量が食べられなく、術後まだ4か月で滋養も欲しいところなので、その対策に頭を悩ませています。

あと、家の件が課題です。
話によると1階の鴨井近くまで浸水したそう。建物自体は残っているものの、土台はえぐられ、修復して済むかどうかは難しい模様。だけど、取り壊すにしても2階が無傷で荷物がたくさんあり、その荷物を移す場所が無い。
姉は、義母が亡くなり、義父は義妹のところへ身を寄せたので、両親と姉一家で一緒に暮らす家を探しているものの、大船渡等も含め近隣は一切物件が無い状況とのこと。仮設住宅も、いち早く着工された地区ではあるものの、今の時点ではいつになったら・・です。

ただ、少しずつ道はできています。
たとえばAmazon。この6日から避難所への直送サービスを始めました。
電話連絡できることが条件だけど、Amazonで扱うすべてを送ることができるのは非常にありがたいです。
少なくとも、色々な物資を現地に送る手立てができました。

3.11で多くを失い、これ以上失うものは無いはず。とにかく前へ進むことが大切。前を向いていこう。
そう心を決めた矢先、再び、今月7日、大きな地震が現地を襲いました。
幸いにも陸前高田のみなは無事で、1日の停電はあったものの、大事には至らなかったのですが、また大きな不幸がありました。
父の実家・宮城県の松島にいる従姉が、その地震のショックで亡くなったのです。
東北太平洋岸で唯一、3.11の津波被害が極小で、さすが松島と喜んでいただけに、あまりに辛い出来事でした。
亡くなっても、今は火葬がままならない状況で、葬儀もいつできるかわからないそう。
何もかもが機能不全に陥った東北太平洋側は、人を送り出すことすらできません。

でも、くじけていられません。
これからの長い道、切り拓いていくしかないです。
まだ私は東京に暮らし、遠方から家族を微力に支援しているだけの今だけど、生まれ育った陸前高田の復興支援をライフワークとしていきます。


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