ハンズメッセでたっぷり買い物 [雑感]
朝、よく寝た~と携帯を見たら時刻は9:10。
一度、8時過ぎに目が覚めたのだけどつい二度寝した模様。。。
まずい、早く起きないと遅れちゃう!!
土曜で仕事も休みな今日、遅れる?どこへ?何に?
ハンズメッセ開催中の東急ハンズの開店時間にですっ。
ハンズメッセが始まったのを知ったのはメッセ開始の25日夜。
24日まで岩手に帰っていたので、すっかり乗り遅れました。
26日昼、職場でチラシを探しだし、今治の残糸バスタオルが出ているかどうかをチェック。
今回もある!!
値段も以前と変わらず780円です。よっしゃー、買うぞー!!
お目当ての今治の残糸タオルは、2年くらい前のハンズメッセで買ったのが出会い。
それまでタオルなんて何を使っても変わりないよーと思ってましたが、
(一度だけほぼ日のやさしいタオルも買ったけど、値段の価値は見いだせず、、)
残糸タオルは、柔らかかつしなやか、いつもふんわり肌触り良く、吸水も良い、
もう、ほかのタオルを使う気になれない使い心地で、
つまりは、今治のタオルの良さをばっちり備えているのに、
お値段たったの780円という超ブラボーなタオルだったのです。
その後、タオルを買うなら今治タオルとネットなどをめぐったものの、に
今治タオルは軒並み高価で、同じ残糸タオルでさえ千円を切るものはなく、
ハンズメッセの780円は、超破格な設定だったことを認識。
どおりであの時は、争奪戦だったワケです。
最近、そのタオルもへたってきたので、そろそろ新しいものをと思い、
ハンズメッセを待ちわびていたところでした。
ハンズに行く気満々で鼻息荒く仕事の終わりを待っていたら・・・
15時過ぎ、新宿は土砂降りの雨が振り出し、総務から全員帰るな命令が。
早番で16:45あがりの筈だった私も、もちろん対象です。
雨が小止みになった17時頃も命令は解除されず、
結局解放されたのは、18時のこと。
出鼻をくじかれ、土砂降りではないものの雨も降り続いてたので
すっかり意気消沈した私は、そのまま家へ帰ったのでした。
でももちろん、残糸タオルをあきらめたわけではありません。
前のときは、木・金は品切れだったけど土曜朝に追加投入があったので、
今回もそうであるならば開店時刻に入店だ!
なワケで、冒頭のくだりになるわけです。
なんだかんだ家を出るのに手間取り、ハンズへ着いたのは10:20頃。
まずは残糸タオルのある4Fへ直行です。
売り切れていませんように・・・あった!
ワゴンには、女性が買うかどうか悩む様子で一人。
そこへ私が歩み寄り、迷わず4枚つかんでカゴへ。その様子、相当勇ましかったのではw
私の行動を見てか、その後、女性もカゴにいれてました。
今回は3種類あって、いかにも残糸な2種とやや薄めな色調のが1種。
いかにも残糸がその時点で30枚くらい、やや薄めは20枚くらい残っており、
12時過ぎに見たらまだ一応あったので、今回は相当数用意したのかも。
残糸タオルを無事ゲット後、次のターゲットへ。
クレイジーソルトです。
よくスーパーなどでは卓上サイズの筒型のものを見かけますが、
ハンズメッセでは、業務用としか思えない500gの特大袋に会えるんです。
しかも、お値段たったの1480円!
ケンコーコムで113g入りが558円と言えば、そのお得さがわかるのではw
次にフライパン。
今回、ティファールデビューを目論み、ティファールからチョイス。
普通のフライパンとややディープタイプと悩み、出番の多いディープタイプに決定。
2480円でしたが、帰宅後ネットで見たら2980円が最安値だったので、勝利!
ちなみにフライパンは1680円だったので、もっとお買い得かもです。
そのほか、色々なものがあるわあるわ。
2時間以上楽しく見て回り、カゴの中にも入りました。
で、買ったものはこちら。
写真右上から
今治残糸バスタオル4枚、泉州製ホテル仕様ゲストタオル3枚、クレイジーソルト特大、
イタリア製ハンガー、両面ガラスクリーナー、うさぎ型塩&胡椒入れ、NECのLED電球、
洗濯漕快(ホタテ貝の洗濯漕カビ落し)、中段:フードつき吸水タオル、耐熱ガラスボール3個組、
フライパン蓋、石けん6種、下段:ティファールディープパン。
帰り、間違ってタカシマヤフードフロアに降りてしまったら、
淀橋市場セールとかで、野菜の大安売り開催中でした。
見ると、デパ地下の野菜売り場なのに、そこらのスーパーより安い!
安さに魅かれ、大荷物にも関わらずゴーヤやオクラ、椎茸などを購入。
大荷物でヨロヨロと自転車で帰ってきました。
なお、実家にクレイジーソルトが欲しいか聞いたら欲しいとのことで、
ほかの品と合わせ、ハンズネットで実家分も注文。
ハンズに大奉仕した?された?な今日でした。
3月11日から今日まで [雑感]
3月11日金曜午後、私は新宿の職場でいつもどおり仕事をしていました。
部であるプロジェクトを開始することになり、夕刻からの打ち合わせに向け、わらわらとドキュメントを作っているところでした。
揺れてる?
皆が顔を上げ、顔を見合わせるうちに、揺れは大きく。
激しくガタガタという揺れではなく、大きく円を描くような揺れ。しかも、長い。長く、揺れも時間を追うごとに強まっていく。
隣で係長は机に隠れようとし、別な人は壁につかまっていました。
私は、地震には慣れて育っていて比較的冷静だったので、来客の安全が確保できるか確かめにロビーへ。
建物内で瞬電が起き、若干、騒がしくなったものの、そうこうするうち揺れも収まり、大事に至らなかったことに安堵。
が、気になる。
緊急地震速報が来ずこの揺れは。。。イヤな予感がし、ネットを急いで見ると、宮城で震度7、岩手の故郷は震度6と出ている。
即行、携帯で実家に電話するも、そもそも関東が携帯規制でつながらず。何度かトライし、あきらめ、公衆電話へ。
行く途中、危機管理部門の友人が「実家、震度6だって?大丈夫か!」と声をかけてくれました。
そして公衆電話から家、姉の携帯にかけるもつながらず。
実は後で、この時点で実家にはつながらなくて良かったと思うことが。
職場でTVを食い入るように見る。そこには、仙台の街が津波に押し流されていく映像が生で流れていました。
他の土地からも、どんどん津波の知らせが入っています。
「実家は大丈夫なの?」と聞かれ、「うちは高台なので、津波は大丈夫です。うちに来たら街全体が壊滅ですよー。ただ、古い家なので、震度6は初めてでそちらが怖くて。」と答えました。
その後も、幾度も電話するけど全くつながらず。
いてもたってもいられず、家の隣にある小学校に電話するもダメ。姉の勤める特養ホーム(うちよりさらに高台)に電話するもダメ。山の麓の神社に電話してみるもダメ。
そのつながらない状況がNTTの輻輳規制ではなく、全部話し中なところから、これは電話設備自体がダメになっているのかもと思い至る。
会社から全員に待機命令が出され帰ることができなかったので、ひたすらネットとTVで実家方面の情報を得ようとしました。
ここでも何度か書きましたが、私の実家は岩手県陸前高田市高田町。
今、この地名を聞くとみな「あの。。」と聞き覚えがあるでしょうが、あの日の時点では、小さい市なためニュースなどでは何も情報が出てきませんでした。だけど、少ない情報ながらも非常に大きな津波に襲われたこと、そして、不確かな情報だったけど、津波は家の隣の小学校に達したことまでわかりました。
小学校に達した=家にも達した可能性ありで、とても気が気じゃなく、そんな私を見かねた上司が、夜23時、こっそり私だけ帰らせてくれました。
帰宅後もTVを流しつつネットで情報を探し続けました。
深夜、気仙地方各地で状況を知らせる声がわずかながらネットに上がり始めたのに、陸前高田からはゼロ。「おーい、陸前高田!誰か返事しろー!」と呼びかける声もでたけど、それに呼応する書き込みは無く、本当に陸前高田はどうなってしまったのだろうと不安は高まるばかり。
そして、夜明け。朝、テレビ朝日だったかな、初めて現地からの中継をしたのは。
そこには、信じられない光景が映し出されていました。
米崎という、隣の町にあたるところにカメラは立っているのに、その向こうの高田町からその先の気仙町まで何も無いんです。
ところどころに、鉄筋コンクリートの建物の残骸のようなものと、マイヤという大きなスーパーの建物と、県立病院があるのみ。
あまりの光景に、何も考えられませんでした。
そして、一番気になる実家の方の画像・映像は全くなく。両親ほか親戚・知人の安否は一切不明。
奈良にいる姪や、長崎や静岡にいる高校時代の友人と連絡を取り合うものの、その後も詳しい情報はさっぱり入らず。
ただマスコミには、「陸前高田壊滅」がどんどん大きく広がっていきました。
12日土曜と、翌13日、ひたすらネットとTVで情報を探した結果わかったのは、姉の家は津波で流されたこと、実家の隣の小学校3Fまで水が来たこと、隣にある小川が溢れたらしいこと、小学校の裏の家はまったく無傷なこと、小学校の児童は高台に避難し無事なこと、被災後の航空写真では家があること。
情報を総合すると、白が多いけど黒が無いわけではなかった。
13日夜、姪から姉と義兄の無事が知らされました。両親の安否はまだわからず、姉が無事なら両親と一緒にいる可能性が高いので、通じてくれるのを祈りつつ、両親の安否を問うメールを送りました。
14日月曜。とりあえず仕事へ。実家を案ずる声を沢山いただくも、まだ不明の返事しかできなく、皆さんに申し訳なく。
そして昼少し前、携帯に姉からメール「両親は無事。一緒にいるから安心を。」。職場の机でしたが、大泣きに泣いてしまいました。
なお、泣いたことで逆に、「おー、無事だったのね」がみんなに早く伝わる結果に(苦笑)
そして昼、船橋の母方の従姉が、家の安否を気遣い職場を訪ねてきてくれました。従姉は十数年前に伯父が亡くなったときに会って以来で、まさかの出来事でした。無事を母方の親類に知らせたくとも、誰の連絡先も知らないことに困っていたので、とてもありがたかったです。
16日、見知らぬ番号から携帯に着信と留守電。聞くと、NTT盛岡が父からの「無事です」を伝えてくれたものでした。
なお、残念ながら姉の家のお義母さまは津波で亡くなったとのこと。
17日、避難先である姉・父の勤め先の特養ホームへ荷物を送りました。宅急便もゆうパックも受付不可だったので、定形外郵便にて。
宛先を見た瞬間「届けられないかもしれないです」と言われましたが、それでもいいです、とお願いしてきました。
母の声が聞けたのは18日、震災から7日目でした。
姉の携帯が一瞬、電波がつながったそうで、その機に義兄が気を利かしてくれたもの。
途切れ途切れ、何度もかけ直しながらでしたが、そのときも嬉し涙でした。
19日過ぎ、やっと陸前高田の避難者名簿のほぼ全部が出回るようになってきました。
TVも、悲惨な映像より、避難者の顔を映すようになってきました。
20日、送った定形外郵便到着との知らせ。さすがです郵便局。あんな状況でもすぐ届けてくれました。本当にありがたかったです。
23日、4月から千葉の刑務官となる甥が岩手から上京。
彼は震災当日、高田町大石の家にいて、地震が強かったので父(義兄)の指示で、祖父母らと庭に出ていたそう。その際、駅(海)方面から沢山の鳥が一斉に山に飛ぶのを見たとのこと(あのとき気づけば・・と悔やんでいました)。
津波が堤防を超えたことを伝えたとされる市の防災無線は、何か大声でわめいているようにしか聞こえず、その後、音声は波が流れ込む音になり、途絶えたそう。
間もなく、津波が押し寄せる音が聞こえ、まずい、山へ逃げろ!と皆で走り出したそう。藪をかきわけ斜面を登るさなか、後ろを振り向くと足の寸前まで波は押し寄せ、後に続いていた父や祖父母の姿はなかったとのこと。自分一人が残ったと観念し、一緒に登る近隣の人と助け合い、どうにか斜面を登り、高台の高田一中にたどりついたそう。
少し後、一瞬は生存をあきらめた父と祖父が来て、父は胸まで波に浸かり、祖父は一時は波に飲まれたもののそれぞれどうにか来れたこと、祖母は波に飲まれたと告げられたそう。
その後、彼は若干21歳ながら地区代表として一中の避難所本部立ち上げに関わり、避難所を離れる日まで奔走したとのこと。
26日、母から実家の家電話、ネット等の解約と、携帯を買って送ってほしいと頼まれました。実家の電話番号は、生まれ育った家の思い出が沢山詰まったものなので、私が解約手続きをするのは本当にさびしかったけど、今後の生活に向かうステップと自分に言い聞かせました。
新しく買った携帯は、もちろんらくらくフォン。陸前高田市に就職するため30日に高田入りする姪に、渡してもらうよう託しました。
もう一つ、26日夜。TBSを見ていたら「陸前高田で仮設住宅申し込み開始」というニュースが。
そっかぁと見ていたら、レポーターの後ろを父が横切るのが見えました。「あぁっ!」私、姪、彼で画面を指さしました。次の瞬間、インタビューに答える父!!
もう家中大騒ぎ。その後私は、震災後初めて見れた父の元気な変わらぬ姿に大号泣。
TVで姿を映してもらい、元気な様子を見られたのは、遠く離れた地で心配するしかない身には本当に嬉しかったです。
30日、渡したらくらくフォンで初通話。ドコモが基地車を避難所に置いているので電波状況は良好、ファミ割なので通話もメールも気兼ねなく使えます。
しかし、最初に話した内容は辛いものでした。
家の隣で、すごくお世話になった方の奥様が行方不明だったのが遺体で見つかったというもの。家族同様のつきあいで、私が小学校のときからずっと慕っていた方なので、30日の夜は泣きはらしました。
津波が来たときの実家の様子も。
実家は高台なので津波警報も気にせず、両親とも家にいたそう。1階にいた母は、隣の小学校から児童の声・足音がして騒がしいなと思いつつ、ふと、玄関はちゃんと閉まっているかなと立ち上がり、窓の外を見たそう。すると家のすぐ15m位先にある小川の橋の欄干に1m以上の高さでがれきが押し寄せているのが見え、瞬時に津波だ!と判断し2階へ駆け上がり、2階にいた父と、窓から家の後ろの様子を見たそう。
水はみるみるうちに川から溢れ、道路と駐車場に渦を巻き、うちの車、ほかの車が浮いて木の葉のようにぐるぐる回っていたそう。家の1階も、母が2階に上がった直後に南と西のガラスを破って一気に浸水してきたとのこと。なす術もないまま水が引くのを待ち、とるもとりあえず高台の公民館に避難し、その後、父と姉が勤めていた関係で、今の特養ホームの避難所へ移動したそう。
もし、あの地震の後にしていた私の電話がつながっていたら、母は玄関を見に行こうと窓を見ることは無かったろうし、そうであったら、母は水に飲みこまれていました。あのとき、電話がつながらなくて本当に良かったです。
そして、何の脈絡もなく「玄関は。。」と母に思わせたのは、亡くなった兄が護ってくれたのだとも思っています。
避難所は、1日2食で、朝がおかゆ、夜がごはんと味噌汁だそうで、炊き出しがあるときのみ、昼食があるそう。
炊き出しでは豚汁やシチューなどそこそこなメニューがあるもののその回数は少なく、どうしても栄養に偏りが出るし、ご飯もおかずが乏しいので、やはり辛いそう。
特に胃を摘出している母は量が食べられなく、術後まだ4か月で滋養も欲しいところなので、その対策に頭を悩ませています。
あと、家の件が課題です。
話によると1階の鴨井近くまで浸水したそう。建物自体は残っているものの、土台はえぐられ、修復して済むかどうかは難しい模様。だけど、取り壊すにしても2階が無傷で荷物がたくさんあり、その荷物を移す場所が無い。
姉は、義母が亡くなり、義父は義妹のところへ身を寄せたので、両親と姉一家で一緒に暮らす家を探しているものの、大船渡等も含め近隣は一切物件が無い状況とのこと。仮設住宅も、いち早く着工された地区ではあるものの、今の時点ではいつになったら・・です。
ただ、少しずつ道はできています。
たとえばAmazon。この6日から避難所への直送サービスを始めました。
電話連絡できることが条件だけど、Amazonで扱うすべてを送ることができるのは非常にありがたいです。
少なくとも、色々な物資を現地に送る手立てができました。
3.11で多くを失い、これ以上失うものは無いはず。とにかく前へ進むことが大切。前を向いていこう。
そう心を決めた矢先、再び、今月7日、大きな地震が現地を襲いました。
幸いにも陸前高田のみなは無事で、1日の停電はあったものの、大事には至らなかったのですが、また大きな不幸がありました。
父の実家・宮城県の松島にいる従姉が、その地震のショックで亡くなったのです。
東北太平洋岸で唯一、3.11の津波被害が極小で、さすが松島と喜んでいただけに、あまりに辛い出来事でした。
亡くなっても、今は火葬がままならない状況で、葬儀もいつできるかわからないそう。
何もかもが機能不全に陥った東北太平洋側は、人を送り出すことすらできません。
でも、くじけていられません。
これからの長い道、切り拓いていくしかないです。
まだ私は東京に暮らし、遠方から家族を微力に支援しているだけの今だけど、生まれ育った陸前高田の復興支援をライフワークとしていきます。
元気だお☆ [雑感]
書きたいなーって思うことは沢山あるんです。
もぉいい加減、日にち経ち過ぎだろー!なGLAYのさいアリファイナルだとかー、
超可愛い文句なしレッドなGucciのバッグとかー、
札幌雪まつり楽しかったとかー、
ニセコは雪バフバフで楽しかったけどしんどかったとかー、
その北海道行で1キロ太ったとかー、
その帰り道で見た東京タワーがピンク色だったとかー、
耳鼻科でアレルゲン検査したら花粉症シロだった!とかー、
循環器内科のセンセイから卒業免状もらったとかー、
とかー、
とかー、
とかー。。。
つまりは楽しく元気に過ごしております。
ただ少しばかり、季節ゆえか繁忙につき、
少々、ここに来る回数が少なくなってます。
ディノスバザールデビュー [雑感]
ディノスバザールってありますよね。
平日の午前、フジテレビの情報番組の合間に流れるCMを見ては、
なにかすごくお買い得そうで心そそられながらも、
大勢の人で混雑し、物がひっくり返されてそうで、実際に行ったことはありませんでした。
それを今回、デビューしてきましたっ!(って、大したハナシじゃないですみません。。)
バザールのお題は「スノーボード&スキークリアランスセール」
最近、すっかり人気も落ちたスノボ&スキーものです。
で、ディノスのバーゲンと言えば会場は東京ドームとか国際フォーラムなイメージですが、
来訪人数も少なさそうなこのお題ゆえか、場所はNSビルでした。
NSビルならば、会社の帰り道の途中で、家から至近。
しかも、会場の広さも知れたもの。
これなら行くでしょー!が、行くのを決めた最大の理由。
きっとそんなに混雑しないだろうとは思いつつ、
その中でもさらに人が少ないときに行きたいな~と思い、
金曜の夕方、仕事終了(17:15)後、速攻突撃!のつもりでしたが、
Gucciに寄ることになり、すぐお暇するつもりが、
そこはKさんとなのでついつい話もしちゃって、NSビルに入場できたのは18:15頃。
人はまばら。
やはり、スノボ&スキー人口は減ったのね・・・と大実感。
今回、見ようと思っていたのはウェア。
手持ちは、かれこれ15年くらい前のもので、当時のフランスナショナルチームのもの。
ナショナルチームものって、スキーウェアというカテゴリの中だと、
結構、流行うんぬんが影響しにくくて、しかも、機能も素晴らしいので、
なかなか積極的に買い替えを考えなくとも過ごせちゃったんです。
でーもー、
やはりデザインはザ・スキーって感じであることと、
当時、ウェストサイズで選んじゃったので、パンツ丈が短いという点があったので、
いい加減、15年くらい経ったのだし、そろそろ変えようと。
まず見たのはBURTON。
人気ブランドなので、売り場場は内最大の面積でした。
しかしここは、機能その他の良しあし情報がまったくなく、
タグはオール全篇英語、片言日本語って感じでさっぱりワケわからず、
どんなに人気・定評あるブランドであっても、
見た目だけで選ぶワケにはいかないのがウェアであるので断念。
そして流浪。
見ても見ても見ても、ピンと来るものが無い。
デザイン的にOKでも機能がOKじゃないとか、
デザイン・機能がOKでもサイズが無いとか、とか、とか。
さんざ迷った挙句、結局金曜は時間切れ、再入場券を手に会場を後に。
そして昨日土曜、リベンジです。(家が近いからできた)
着いたのは午後2時頃。人出は、金曜よりは少し増えたかな程度でした。
まず、自分自身を整理するため、ウェア売り場を一周。
(なお、スキーウェアとスノボウェアの売り場は別でした。
スキーウェアは論外なデザイン&品揃えなので、
スキー派な私ではあるけど、スノボウェアで探した今回です。)
モダンアミューズメントなどがあり、おっ!と気になったりはしたけど、
お歳がお歳なので、イタくなる可能性があるのは排除し、
適度にカラフルかつスタンダードなmizunoのマルチストライプに決定。
が、問題が一つ。mizunoは高い。。。orz
上も下もそれぞれ2万超なので、両方買うと4万超。いやームリ!!!
しかも、上はMサイズしか残っておらず、私が欲しいのはLサイズ。
なので、下をmizunoにして、上は他のとこの白無地で安いものを組み合わせることに。
が、探してみたら意外に無いんです。
ぶ厚すぎたり、保管状態が悪くヨレヨレだったり、薄すぎたり、何かしら難がある。困った・・・。
mizuno売り場に戻り、試しに上Mサイズ(2.1万)を着てみる。
あら、結構いいかも?
売り場スタッフからも、そのサイズがジャストという意見があり、作戦変更。上を柄、下が白にしよう。
同じmizunoで見たら、ブレスサーモものが1.6万弱であり、私の欲しいサイズもある。
上下で3.7万は多少きついけど、ブレスサーモだし、暑さ調整ファスナー装備など、機能も抜群。
よし!と決断しました。
その後、ふらりゴーグル売り場へ。
幾つか試し、顔にフィットする&デザインOKなものを発見、
ウェアと合わせると4万超えるお会計になっちゃうな。。。
でも、顔に合うゴーグルって大事なので、思い切って買うことに。
そしてお会計に向かう途中、スキーボード板が目に入りました。
金曜はJoyRideの板だけだったのが、土曜はAirWalkのものも同価格(9.8K)で並んでます。
私が乗ってる板はサロモンのスノーブレード('98モデル)。
名板ですが、88センチで新雪&深雪が超弱いのが悩みで、
せめて99.9センチだったらなぁと思っていたところだったので、食いついちゃいました。
デザインが、スカル全開でカッコ良かったのもポイント。
しかし、これを買うと5万の買い物になっちゃう。うーーむむむむ。。
結局、ゴーグルをあきらめ、ウェアと板だけ買ってきました。
帰宅し、ネットで調べたらウェアは今季モデルであることが判明。
しかも、ネットのどのショップよりも安く購入できてました。
板も、同じような価格設定のショップは売り切れており、残るは高いお店のみ。
ディノスバザール初参加、とりあえず成功!?
新ウェアはこれ。ボーダーの配色が気に入りました。
板はこれ。女のコの板じゃない感じ!?
お疲れさま、10年以上ありがとうなウェア。
レーザーでジュッ [美容]
数年前、気づいたら額の生え際中央にイボができていました。
直径6mmくらい、高さは7mmくらいで結構大きめ。
普段は前髪で隠れるのでいいものの、
美容院でジャマだな~と思われてそうで気になり、
これは取らないといけないなぁと思いながらも、
気になるのは美容院のときぐらいという理由の弱さゆえ、
ずっとほったらかしにしていました。
が、このお正月に何かでひっかいたらしく、そのイボに傷が。
洗顔するたび、シャンプーするたびに血が滲みヒリヒリ。
しかも、前髪をブローするときにブラシが当たって痛み、ブローもままならず。
これはちゃんとしないと。とうとう決断。
普通の皮膚科だと液体窒素や切除での治療になるとのことで、それはイヤなので、
レーザーでできる美容皮膚科を検索したところ、前に行ったことのある病院が、
保険診療でレーザー治療くれることが判明し、これはいい!と、早速予約。
一昨日金曜の夜、行ってきました。
医師による診察後、早速施術です。
まず、施術箇所(つまり額)に麻酔を注射。
額への注射って、いかにも注入してます感が感じられて、
何とも言えない緊張感でした。
そしていよいよ、レーザー照射。
ちょっと照射され、痛みの有無を聞かれました。
熱い感じがしたようなしなかったようなであったので、
痛みは感じなかったと答えたところ、そのまま照射続行。
やはり熱い感じがする気がしたので、麻酔ビミョー!?と、緊張が高まりました。
しかもそのうち、焦げた匂いがしだして、
確実にその箇所をえぐられている感も感じられて、
いつ、すごい痛みが来る!?と、ドキドキしてたら、ふっと終わりました。
炎症止め?の薬を塗られて終了。
全行程、時間にして5分もかからなかったです。
鏡を見ると、イボは全て取り去られ、
感じていたとおり、少しえぐられてはいましたが、ごくわずかで、
かさぶたのような傷があるのみ。施術後の痛みもありません。
レーザー施術を選んで正解!
そして今日現在、かさぶたは少し小さくなり、いたって順調です。
(公開したいところですが、傷なので、写真は自粛)
こんなに簡単なら、もっと前に取っておけば良かったな~と。
なお、今回せっかくなので、ほかの小さなイボも取ることにしたのですが、
保険診療だと1回の通院で1か所しかレーザー照射できないとのことで、
次は今度の金曜に受ける予定。
2011年新年 [雑感]
この年末年始は、例年どおり実家へ帰省してきました。
今回、いつもと変わったところと言えば、おせちを私が作ったこと。
いつもの年は29日あたりに帰省してたので、
既におせちの9割は準備された状態でしたが、
今年は母が退院間もないのでその余裕はないはずと、
早めの27日に帰り、私が作ることに。
当初、母に指導されつつのおせちづくりを想定してましたが、
聞くと、特に決まったレシピも無いとのことで、
これを見てやってみてと、おせちレシピの載った「きょうの料理」を渡され、
それと首っぴきでのトライ。
作ったのは、炒り鶏、栗きんとん、田作り、たたきごぼう、なますなど。
初回から頑張るのも大変なので、昆布巻きなどは買うことに。
そして、出来上がりはこんな感じに。
(お重だけの写真は撮らなかったので、食卓全部ですが(^^;)
なお、お重につめるのだけは、ずっと私が担当していたので、そこはお手のもの♪
そして、今回の帰省でやはり気になっていたのは母のこと。
食事摂取の状況があまり良くないと聞いていたのだけど、
私が帰ったちょうどその日から、食後の腸の調子に少し回復の兆しがあり、
それに少し元気づいたのか、いる間、思ったより食べてくれました。
これなら大丈夫かな~と、帰京したのでしたが、
昨日の電話では、私が帰ってからまた食欲が落ちたとの話。
なかなか、す~っと回復!とはいかないようです。
食欲は、美味しそうと思うからこそ湧くものなのでしょうが、
父は、慣れない料理に取り組むのだけで精いっぱいで、
母が何を美味しそうと思うかまでを慮るところまでいけてません。
しかも、色々と食材等に制約も多いので、ハードルは高い。
せめて私が料理できれば・・・
離れているもどかしさばかり。
的中してました [雑感]
年末近いので、普段手をつけていなかったエリアを片付け。
積み重なった色々を整理していたら、昔の日記が出てきました。
パラパラ読むと、その当時は結構筆マメだったようで、
日々、色々細かなことがギッシリ書いてあって、結構面白い。
まー、お年頃もあって主には色恋沙汰が中心な内容でありましたが。
その中で、ふと気になるページが。
それは2005年秋ごろの日付。
原宿のタリムという占い館で、家紫さんという占い師に見てもらった話。
相談内容のメインは、当時好きだった人とうまくいく?というもの。
メインの相談の方はさておき、気になったのはそのほか。
時間が余ったので、見えることを全て話してくださいってお願いし、
話してもらったことのいくつか、というのが書き留められていました。
・2年後(2007年)に、仕事が突如ヒマになる
・結婚は5年後(2010年)
・結婚相手は年下で、自立or自営した人
・母方先祖のお墓参りに行ったことがない
一番最後の母方のお墓参りは、その時点で的中でした。
いわゆるコールドリーディングを疑われそうな事柄ですが、
何の脈絡もなく、突如飛び出したので、的中と言ってもいいのでは。
当時、それだけは感じました。
そして、たまたまその内容を目にして驚いているのが今です。
2007年、人事異動で私は本当にヒマな仕事に変わりました。
2010年、籍こそまだだけど、両方の親に結婚の挨拶をし、生活自体は新婚さんです。
そして彼は4歳下、自営を目指す人です。
どれもこれもウソみたいに当たってる~!
あと、当時好きだった人は会社に勤めていたのですが、
近い将来、その彼は自営になるということも言われ、
確かに今、その彼は友人と共同経営で会社を興しています。
評判が高いということで見てもらった家紫さんですが、
5年経って、本当にスゴイ人だったーと実感しました。
あともう一つ、言われた事柄があるのだけど、
それが的中かどうかは4年後にわかるので、それまで待ちです。
ちなみに、今は神様頼み・仏様頼みはしますが、占いはさっぱりです。
雑誌の占いのページもまったく見なくなりました。
恋愛関係が落ち着いちゃうと、こんなものなのですね~。
母の手術 その2 [雑感]
手術は11時30分から。
驚いたのは、手術室には自分で歩いていくこと。
まぁ、それまで普通にピンピンしていたのだし、麻酔をしているわけでもないので、
歩けるのは当たり前なのだけど、なんかイメージが違ってました。
家族全員で、頑張ってね~!!と手術室に入る母を応援。
手術時間はおよそ4時間程度と事前に説明を受けていましたが、
実際に終わったのは5時間半も経った頃でした。
手術室に呼ばれ、摘出した胃と胆のうを見せられ、
実際の病変部位の説明や、術中の経過などを聞きました。
ちなみに、病変部位は素人でも明らかにわかるものでした。
これが母の命を脅かしていたのか。。。
母の体の一部であった胃とそこに巣食ったガンを複雑な思いで見ました。
ほどなく母が手術室から出てきました。
意識は戻っているものの、痛むようで苦痛に顔を歪めています。
術後の一晩を過ごす回復室に運ばれ、少しして家族の入室が許されました。
痛みにうめいています。
看護士から、痛みどめを入れたので10分ぐらいで痛みは和らぐはずと説明があり、
母に、もう少しで痛みが止まるからと声をかけて励ましました。
が、いくら経っても痛みが和らぐ様子が無い。
効き始めるはずの10分なんてとうに過ぎ、30分以上同じ状態が続きました。
母は我慢強く、相当なことで音をあげない人なのですが、
痛みに耐えきれずうめき、この痛みはいつまで続くのかと苦しんでいます。
看護士に再度訴えるも、おかしいですねと言うだけでとりあいません。
1時間経っても痛みが続くなら対処しますというんです。
この苦しみを1時間ガマンしろと!?
普通なら10分で効くはずで、倍以上待っても効かない薬を、6倍の時間待てと!?
アホか、テメーがその身で体験してから言え!と言いたかったけど、
ケンカして事柄が改善するわけではないのでこらえ、
とにかく対処をと粘り強くお願いし、
結果、45分経過した頃やっと、別の痛みどめを点滴に入れてもらえました。
それはかなり即効性のある痛みどめであったらしいのだけど、
結局、それの効き目も遅かったです。
どうにかうめかないですむようになったのは1時間10分経過した頃、
本当の意味で効いたのは1時間半はゆうに経過していました。
この件は、今でも疑問が残ります。
同日にオペがあったほかの二人も1時間以上うめいていたと聞いたのは後日。
外科手術とはそういうものなのか、それともあの病院の対処が悪いのか。。
27日昼、回復室から病室に。
お腹を切っているので話す声に力は入らないけど、話すことはできました。
傷の痛みはある程度あるようで、痛みどめの注入スイッチを何度も押していました。
28日。術後2日目です。
水分NGなので、口が渇くのが辛そうでした。
痛みどめがはずされましたが、特に辛そうな様子はなく、人間の回復力を感じました。
歩かないと腸が癒着を起こすというので、歩行訓練開始。廊下の半分を往復。
29日。術後3日目です。
朝、縫合部分の接合を確認する造影検査を行うはずが、救急対応で翌日に延期に。
この検査がOKなら水分許可だったはずなので、とても落胆。
しかし、後から、担当医から水分だけはOKの指示が出ました。
接合状態を確かめずにOK出していいの!?
少し不安に思ったものの、水分が摂れるのはありがたいので水を摂取。
飲んだとたん腸が音をたて、人間の体の敏感さを感じました。
歩行訓練は、廊下1往復を日に2回。
30日。術後4日目です。
造影検査は無事OKで、食事開始のGOサインが出ました。
食事とは言ってもこの日は重湯ですが。。
しかし、造影剤の影響もあり腸の反応が大きく、ほとんど食べられず。
歩行訓練は、廊下1往復+αを日に2回。
体に差し込まれていた管2本のうち1本がはずされました。
1日。術後5日目です。
食事が3分粥に。ほんの少しながらおかずも。
やはり腸の反応のすさまじさに、ほとんど食べられず。
歩行訓練は、病棟内1周にランクアップ。
2日。術後6日目です。
5分粥にランクアップ。おかずはかなりおかずっぽくなりました。
食べる量は、どうにか半分ぐらいまで改善。
歩行訓練は、楽勝に病棟内1周。
体に差し込まれていた管のもう1本がはずされました。
3日。術後7日目です。
全粥にランクアップ。食べる量は、3分の2ぐらいまで改善。
高栄養剤の点滴がはずれました。
シャワー許可が出て、1週間ぶりにお風呂。
4日。術後8日目です。
抜糸。今は、糸じゃなくホチキス状の針で、それを抜きました。
全粥。食べる量は変わらず。
高栄養剤が無いせいか、ふらつくとのこと。
浴槽につかるお風呂の許可。
5日。術後9日目です。
私はこの日で帰京。顔を見せる感じで病院に行きました。
お粥からご飯に。食べた量はやはり3分の2程度。
しっかり歩き、私をEVホールまで見送ってくれました。
以上が、私が付き添った間の母の様子でした。
毎日朝の8時半頃から夜8時ごろまでずっと付き添っていて、
こんな風にできるのは幸せな環境だなとしみじみ実感。
当初予定よりも休暇延長を認めてくれた職場に、
私の不在をガマンしてくれた彼に、
仕事をしつつ家のこともしつつ毎日支えてくれた姉に、
母を心配であったろうけど、主には家事様々を頑張った父に、
みんなに本当に感謝でした。
母の退院は15日とのこと。
本当は8日には退院許可があったそうだけど、諸事情で15日に。
母はこれからの生活が大きく変わるし、
もしかすると他の補助治療もあるかもしれないなど、
まだ全部が終わったわけではないですが、
精いっぱい支えになれるよう、頑張っていきます。
母の手術 その1 [雑感]
母の胃摘出手術の日程が決まったのは先月18日。
27日のGLAYの長野ライブの後であってくれたら・・・
願いは届かず、24日に入院し26日に手術とのこと。
けれど、母の方が大切。
未練無く、知り合いに4列目HISASHI前チケットを譲りました。
23日が祝日だったので、22日の夜行バスで実家へ。
深夜バスに乗ったのは10数年ぶり。
やはりあの雰囲気、シートはヤですね~。
けれど、どうでしょうのおかげで、そのキツささえもある意味楽しめました。
23日朝、家に到着。
いつもと変わらない朝食で母が迎えてくれました。
昼間、術後はしばらく温泉などもムリかもしれないので、
みんなで温泉にでもと考えていましたが、天気の悪さや準備のあれこれで行けず。
結局、夕食の買い出しだけの外出。
今夜はお母さんの食べたいものをメニューにしよう、
そう言うと「そう言われてもね~・・。」と困る母を見ていて、
ずっと家族の食べるもの・食べたいものをまず考えてくれていたのだなぁとしみじみ。
なお、その日の夕食は地元の朝穫れイナダのお造りに。
これがですねー、エラく美味しかった~。
しかも、値段が半端ない。なんと1匹丸ごとで240円!
しかも、魚屋さんがおろしてくれてサクにまでなってもその値段なのですよ!
三陸の地元海の幸パワーの真髄を感じたメニューでした。
24日、いよいよ入院。
やはり母は色々な意味で不安と緊張でいっぱいな様子でした。
私たち家族は、そんな母をとにかく元気づけ、力にならないとと実感でした。
部屋は4人部屋。
個室なども考えましたが、話し相手・仲間がいた方が良いのではということで、
費用の面でも負担が軽い4人部屋を選びました。
母を担当するという看護士さんが挨拶に来て、その姿を見てびっくり。
そんじょそこらには居ないような、長身の超イケメンだったのです。
玉山徹二と生田斗真を足して2で割った的な感じと言えば伝わるかな~。
まぁ、入院生活で楽しい気持ちになることなんてそうそう無いので、
せめて、そういう楽しみがあったのは良かったかも。
ちなみに、彼は地元で1番ありふれた苗字だったので、
家族内では、彼をファーストネームのミツマサと呼ぶことに。
25日、病院に行くとすでに母には点滴の管が入れられていました。
術後の薬剤や栄養剤を入れるためだそう。
この日、隣のベッドが同級生のお母さんであることが判明。
手術も同じ26日とのこと、世間は狭いと感じた一瞬でした。
26日、手術当日。
朝、仏壇の仏様、帝釈天様、亡き兄に手術の無事をお祈り。
それまで、私が泣いても何にもならないと思い、ずっと泣かずにきたけど、
この瞬間だけは、涙を抑えられませんでした。
どうか、手術が無事で終わりますように。
その後の経過もどうか良いものでありますように。
長くなるので、続きはその2へ。
覆水盆に返らず [雑感]
午前中、同じ係の人が、公開するのは好ましくないファイルを
先週金曜の夜に全社に向けメール送信してしまったことが判明。
係長とその彼が、対処を考え始める。
私は、こういうときに係長がどういう指示を出すかしばし観察。
ちなみに私なら、判明時点でメール削除依頼をまず出したなぁ。
しかも、文章うんぬん考える時間がもったいないので、
手分けして、各部署の庶務担当に直電で。
と思いながら見ていました。
なかなか対処が決まらない様子だったけど、
少ししてどうやら決まった模様。
係の彼が、一生懸命メールを作文し始めました。
メールか・・・
そのままお昼休みに突入。
お昼休みを終え戻ると、まだ作文してます。
どれだけ難しい作文なんだ・・・
結局、作文をさらに係長が推敲したりなどで、
できあがったのは14時過ぎ。
でも、メールを送る段になり、また疑問点が浮上した模様で作業中断。
見かねて、その浮上した疑問点を解消できるかどうか、
当たりをつけるための調査を(勝手に)してみたら、
ファイルは既に大幅に拡散し、回収不能なことが判明。
もっとつっこんで調べてみたら、
お昼休みをはさむかどうかがターニングポイントだったことがさらに判明。
迅速さってやっぱり大切だな~。
そう実感した今日のできごと。
ちなみに、この件をどうしたかですが
書いたとおり、既に手遅れであることがわかったので、
ヘタに騒ぐと無駄にそのファイルに注目が集まってしまい悪影響となるので、
ひっそり、知らんぷりすることになりました。
長野ビックハットチケット到着 [GLAY]
GLAYの2010-2011ツアー、FCで唯一当選した長野ビックハットのチケット、
さきほど到着!
開封する前、まず気になったのが封筒の宛名。
これまで、宛名ラベルを見るとアリーナ席だとほぼ一目瞭然だったので。
さて今回は・・・?
印字されたナンバーは、桁が結構大きい。
日産スタジアムのときの封筒は、
数字が小さい=アリーナ2列目、大きい=スタンド後列だったので、
もしや今回はスタンドか・・・。
あまり期待せず開封。
まず目に飛び込んだ言葉。
「アリーナ4列」
ア、アリーナ4列ーーー!!
そして、番号は・・・
HISASHI前だーーー!!
さすがFC。
ホールツアーと、東京圏会場をことごとく落選した埋め合わせは
きっちりしてくれましたっ
医療費控除にとどかず [雑感]
今年はかなり病院通いをしています。
6月に体調を崩してらからは、CT撮ったりMRI撮ったり、
マンモグラフィーやエコー数種類等、検査をたくさん受けたので、
毎月、そこそこの出費が続いていました。
なので、今年はとうとう医療費控除を申告することになるかしらん、
そう、思っていました。
そして、年末も近くなってきたので、そろそろ合計金額を確かめておこうかしらと、
さきほど、領収書の束を計算したところ・・・
54,045円
全然、足らないじゃん。。。
払ってるように思っても、以外に払っていませんでした。
感覚的には10万ぐらい払っているような気がしてたので、
本当に払ってたら、もっとお財布が厳しかったってことです。
そりゃー、控除も必要だ。
ちなみに、医療費控除って、支払った分を収入から控除して
税金を算定するものとばっかり思っていましたが、
実は、基準額超過分の10分の1を還付という制度なのですね。
つまり、11万支払っていたら、1万円が超過なので千円還付(小さっ)。
私が無知なだけなのかもしれませんが、
世の中、私みたいな勘違いしてる人、そこそこいるんじゃないでしょうか。
平癒祈願 [雑感]
母に、胃がんが見つかりました。
夏に帰省したとき、市の消化器検診にひっかかったと聞き、
体重も減っているのを見て、まさか・・と思っていましたが、
精密検査の結果、初期のものであることが判明。
現在、手術に向け、他への転移の有無などを調べています。
昔は致命的な病気であったがんですが、
今は医療の進歩により、すぐ結びつくものではないです。
今回見つかったのも初期だそうだし、絶対大丈夫、信じています。
けれど、手術を免れることはできません。
しかも、今回は胃の上部にできたものだそうで、
たとえ初期であっても、全摘になるそう。
だとすると、術後の生活が大きく変わります。
他への転移がありませんように、
手術が無事に済みますように、
少しでもQOLの変化が少ないように、
予後の再発などがないように、
祈る気持ちであふれます。
そして昨日、病気平癒祈願で名高い柴又帝釈天へ。
駅を降りると、すぐ参道があります。
昨日は庚申、柴又帝釈天では特別な日とされ、
この日にしかいただけない特別な御符があり、
今回はそれをいただきたくてのお参りです。
山門にも庚申の提灯が下げられています。
ご本堂。
本堂内にてご祈祷を申し込み。
通常は、先に茶菓子の接待を受けてからご祈祷するところ、
私は時間ギリギリでの申し込みだったため、
すぐご祈祷を受けることに。
ご祈祷はてっきり本堂で行うのかと思っていましたが、
こちらの別室でのご祈祷でした。
一緒に受けたのは私を含め3組。
みなさん、それぞれ祈願があるのでしょう。
ご夫婦の一組がお数珠をお持ちで、私はしまったと反省。
お寺に行くのにお数珠なしで行くとは日頃の信心ぶりが見えるものです。
しかしながら、ご祈祷では、
悟りを開けていない私にはなかなか難しい部分が多かったものの、
その言葉一つ一つが心に染みました。
途中は涙も。
ご祈祷で泣くってのも変でしょうが。。。
ご祈祷後、ありがたくお札などをいただき、
邃渓園を一周して景色を楽しみ、帰ってきました。
ちなみに、ご祈祷後にいただいたのは、
お札2種と、庚申の特別御符(一粒符の特別版)、
帝釈天手ぬぐい、暦、季刊誌でした。
(早く母の元に届けたかったので、
帰宅後すぐ一式をエクスパックで発送したので、写真はなし)
なお、ご神水で一粒符を飲むとさらに霊験あらたかという話ですが、
湧水をそのまま流しているせいでしょうが、
ご神水に「手を洗う水です」と表示されていたので、
さすがにそれを飲むというのも・・というわけでそちらは断念。
そうそう、柴又といえば寅さん。
柴又駅前には像が立っていました。
平癒の御礼参りでまた会いに行けることを信じています。